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中山道   (愛知川~近江八幡)


平成27年11月1日(日) ☀  愛知川~近江八幡  11.3㎞
今日も天気は良さそうである。昨日と同様街道を進む距離は11.3㎞と短く、途中の神社仏閣へ寄っても総距離は16.5㎞程であり、日の入り時刻を考慮しても余裕で進むことができる。愛知川宿を出ると御幸橋で愛知川を越えて、武佐宿をちょっと越えたところまでで近江八幡に出る予定である。

味吉屋 不飲(のまず)川橋 祇園神社 御幸橋(むちん橋)
味吉屋の泊り客は私を含めて3組の4人であり、一階は私一人で左右の8畳間は空いていた。共同風呂は一人でゆっくり浸かることができ快適であった。トイレは廊下の奥にあるが、夜間でも電気が点いていたので安心して使用できる。朝食は出発時間に合わせて用意していただけるので街道ウォーカーには有り難い。 早朝の街道には車も人の往来も無く、非常に気持ちがいい。 国道8号線に合流して先に進むと御幸橋の手前左手に祇園神社がある。祇園神社は、歌川広重の浮世絵にも描かれた無賃橋の守護として天保9年(1838)に建てられたという。この神社では毎年7月に祇園神社の祭礼として始まったという愛知川祇園納涼祭花火大会が行われている。 愛知川に架かる御幸橋は、文政12年(1829)愛知川宿町人・成宮弥治右衛門忠喜ら4名が彦根藩に架橋を申請して天保2年(1831)に完成した。橋は渡り賃を取らないことから 「むちん橋」 よ呼ばれた。また明治11年(1878)明治天皇御巡幸の際に板橋が架けられ、その後、地域に払い下げられ 「御幸橋」 と改称された。現在の橋は昭和36年に改修した5代目の橋である。

大神宮常夜燈 秋葉山永代常夜燈 愛宕神社 東嶺禅師御誕生地碑
御幸橋を渡ると東近江市五個荘に入り、渡り詰めで簗瀬北交差点を左折し、近江鉄道本線を越えると右手の路地角に文政8年(1825)の大神宮常夜燈が建っている。街道は常夜燈の角を右折して行く。 大神宮常夜燈の角を曲って直ぐ、右手のゴミ集積所の裏に秋葉山永代常夜燈が建っている。年代は風化ではっきりしないが享保と読み取れる。 直ぐ先の左手に火防の神愛宕神社があり、鳥居の奥に小社が建っている。 続いて街道右手の赤い屋根の家の隣にある木の下に東嶺禅師御誕生地碑が建っている。東嶺は享保6年(1721)近江小幡駅出町(滋賀県東近江市五個荘小幡町) に薬屋を営んでいた中村善左衛門の嫡子として生まれ、享保14年(1792)9歳のとき近江能登川大徳寺の亮山恵林につき出家した。その後、近世臨済禅中興の祖と言われる白隠慧鶴(1686-1769)の高足の一人となる。

地蔵堂 厳島神社 道標 地蔵堂
街道右手の電気店前田谿澗堂の向かいの路地を左折すると左手に地蔵堂がある。地蔵堂は閉じられており、中を確認できない。 地蔵堂の直ぐ先に明治4年(1871)小幡の表鬼門の守り神として安芸の厳島神社を勧請した厳島神社がある。境内には、芭蕉句碑 「八九間 空で雨降る 柳かな」 と地元の俳人・市河公風句碑 「果寿美かと 思ふほどなり 初霞」 がある。  街道に戻って進み近江鉄道本線の木幡踏切を越えると左手に木柱の道標がある。道標には 「左五個荘駅 右福祉センター」 と記載されている。 道標の先で街道を横切る小川脇に駐車スペースと見間違える覆屋の奥に地蔵堂がある。

善住寺 木幡神社御旅所 長寶寺 追分道標
程なく街道右手の奥に真宗木辺派の法皇山無量寿院善住寺がある。
参道口には聖徳太子御舊跡碑が建っている。
次いで右手に木幡神社御旅所があり、境内奥に山王神社がある。神社の手前には、この地で生まれた織物輸入商の吉川義一郎翁顕彰碑がある。御旅所の向かいには昭和23年(1948)創業の中澤酒造がある。 木幡神社御旅所の直ぐ先右手には浄土宗の木幡山長寶寺がある。
境内には延命地蔵・白寿観世音がある。
長寶寺を出て直ぐ左手に入る筋があり、角地に追分道標が建っている。道標には 「右京みち 左いせ ひの 八日市みち」と刻まれている。道標の左手を斜めに進むのが御代参街道であり、その手前を直角に左に入ると五個荘駅である。江戸中期頃、京の公卿たちが年3回伊勢神宮と多賀社へ代参の名代を派遣する習慣があり、この道を利用したことから御代参街道と呼ばれるようになった。

五箇荘駅 細道地蔵尊 大神宮常夜燈 正眼寺
御代参街道の手前の筋を進んで行くと突当りに五箇荘駅がある。駅前には木幡商人発祥の地碑と 「わがまち一番」の案内板があり、駅までの途中には吊るし雛の下がった地蔵像堂がある。 御代参街道を少し入ったところに細道地蔵尊がある。地蔵堂には3体の自然石の地蔵尊が安置されており、地蔵堂の脇には石の擬宝珠が並んでいる。 街道に戻ると直ぐ先でY字路となり、中央に旧中山道ポケットパークがあり、街道は右に進んで行く。
ここには明治5年(1872)の大神宮常夜燈と東屋がある。
ポケットパークの向かい側の参道を入って行くと臨済宗の慈光山正眼寺がある。正眼寺には、慶長17年(1612)に角倉了以の子である角倉貞順が安南(現在のベトナム)貿易に際して、安南に送った文書とそれに対する安南よりの修好文書とが所蔵されている。角倉了以は諸国の河川開発事業にも活躍した人物として著名である。

名残の松 旧家 地蔵堂 ポケットパーク
街道に戻って進み大同川を渡った突当りを左折すると街道右手の近江市役所五個荘支所の前に名残の松がある。大同川沿いの柵には近江商人のレリーフが設置されている。 名残の松の先には重厚な造りの旧家が点在している。 街道を進むと右手に地蔵堂がある。
地蔵堂の中には金色の厨子の中に陽刻された地蔵尊が安置されている。
地蔵堂の斜向かいにポケットパークがあり、中山道分間延絵図・近江商人のレリーフ碑などがある。

旧五箇荘郵便局 西澤梵鐘鋳造所 若宮神社 称名寺
ポケットパークの先右手に旧五個荘郵便局の建物がある。大正14年(1925)の竣工でデザインと構造の両面から1920年代の典型といえる建築であり、日本では1910年から25年頃までの大正時代と重なる時期に大流行した。 旧五個荘郵便局の建物の向かいに西澤梵鐘鋳造所がある。西澤梵鐘鋳造所は、江戸時代以来の伝統技術を最も色濃く残す鋳造所であり、 竹タガで締める土製鋳型や、その鋳型を大きな土坑に据えて、溶解炉から溶けた金属を流し込むという 他の鋳造所では既にに絶えてしまった梵鐘鋳造の技術が記録されているという。 西澤梵鐘鋳造所の先の十字路を左に入ると若宮神社がある。由緒・祭神などは不明である。鳥居の向かいには 「わがまち一番」 の案内板があり、西澤梵鐘鋳造所が掲載されている。 若宮神社の先を進むと東海道新幹線の高架手前に天台真盛宗の木龍山称名寺がある。境内東側はブロック塀に囲まれた境内墓地になっており、北側中央付近のブロック塀沿いに立派な宝篋印塔があるというが、墓地の中には入れなかった。境内には法華塔・六地蔵尊・水子地蔵尊がある。

常夜燈 花壇 明治天皇北町屋御小休所碑 蓮光寺
街道に戻って進むと右手の民家の塀に大将軍川の標示版があり、その先左手の松本木材店の路地前に天保15年(1844)の常夜燈が建っている。この常夜燈の台座は道標になっており、「左いせ ひの 八日市 右京道」 と刻まれている。 常夜燈の先で北町屋の集落に入るとちょっとしたスペースに花鉢や花壇が設けられている。花鉢には 「花さき ゆめさく 北町屋」 と書かれている。 信号交差点を越えると左手にポケットパークがあり、明治天皇北町屋御小休所碑が建っている。一角には地蔵堂があり、二体の地蔵尊碑が安置されている。 ポケットパークの先右手に真宗佛光寺派の慈照山蓮光寺がある。境内には地蔵堂・経蔵があり、本堂には元国土庁長官河本嘉久蔵書の蓮光寺の扁額が架かっている。

市田庄兵衛家本宅 大郡神社 地蔵堂 茶屋本陣跡・常夜燈
続いて街道右手に北町屋の郷標柱があり、隣に京町屋風商家がある。この建物は明治初期の建築で、江戸時代から呉服繊維商として京都・大坂で活躍した市田庄兵衛家の本宅であり、平成13年に北町屋町が購入・保存している市指定文化財である。母屋右横にある表門は 「凱旋門」 とも言われ、日露戦争の総司令官・大山巌元帥が凱旋時に投宿された大坂の由緒ある邸宅の門を移築したものである。 市田庄兵衛家の一軒先に大郡神社の参道がある。参道には沢山の御神燈が並び国道8号線を渡ったところに社殿がある。御祭神は弘文天皇・十市皇女であり、境内社は金毘羅神社がある。この神社の一帯は大郡遺跡という奈良・平安時代に近江国に置かれた12の郡の内の神崎郡の役所(郡衙)があったところである。 大郡神社参道口の常夜燈の隣に地蔵堂があり、二体の延命地蔵菩薩碑が安置されているが、手前にお花が供えられていて形容は確認できない。 県道209号線の信号交差点を渡った右手角に茶屋本陣跡の旧片山家住宅があり、角に天保8年(1837)の金毘羅大権現常夜燈が建っている。

茅葺屋根の旧家 小社 若宮八幡宮 観音正寺道標
街道左手の水路が左から街道に延びている角に茅葺屋根の旧家がある。暫くこの水路に沿った街道を進んで行く。 街道を進むと五個荘山本郵便局の先右手の五個荘石塚町の標識の隣に小社がある。 小社の先の左手水路脇に若宮八幡宮がある。 若宮八幡宮の斜向かいの路地角に観音正寺道標がある。道標には 「三十二番くわおん正寺 是より十町」 と刻まれており、上部に千手観音が乗っている。観音正寺は、ここから直線で2㎞程北西にある繖山(きぬがさやま・標高433m)の山頂近くにある寺院で、聖徳太子が千手観音を彫み開かれたもので、観世音菩薩の聖地とされている。

常福寺 旧中山道碑 慈恩寺 地蔵尊
観音正寺道標の路地を入って国道8号線を渡ったところに天台真盛宗の繖山常福寺があり、境内には地蔵堂・法華塔などがある。常福寺の手前には長塚院延命地蔵尊がある 街道に戻って石塚の一里塚があったいわれる日本寝具通信販売の前を進んでいくと、国道8号線に合流する手前右手に旧中山道碑が建っており、側面に 「てんびんの里」 と刻まれている。旧中山道碑の上には道中合羽を着て天秤棒を担ぐ近江商人の像が乗っている。 国道8号線に合流し直ぐ先の信号交差点を右折して、直ぐ左に入るのが旧街道である。ここを左に入らずに真っ直ぐ進むと左段上に黄檗宗の慈恩寺がある。現在は無住の寺院であり、境内には宝篋印塔・観音菩薩像があり、慈恩寺手前の段上に阿弥陀如来が安置されている。 慈恩寺から旧街道入口に戻ると、右手の五個荘清水鼻町自治会館前に地蔵尊が安置されている。

清水鼻の名水 日枝神社 浄敬寺 分岐
清水鼻自治会館の直ぐ先に清水鼻の名水がある。昔から湖東三名水の一つと言われ、清水が今も湧き出ている。 清水鼻の名水の右手に日枝神社の参道があり、石段を上がって行くと途中の地蔵堂に3体の地蔵尊が安置されている。地蔵堂の前には宝篋印塔・五輪塔・墓石などがあり、その先に日枝神社の鳥居があって、更に石段を上った段上に日枝神社の社殿がある。 日枝神社を過ぎると右手に真宗大谷派の菩提樹山浄敬寺がある。境内には、丹羽長秀家臣・種橋藤十郎成章の墓がある。成章は元亀元年(1570)10月、一向一揆によって戦死している。 浄敬寺を過ぎると安土町石寺に入り、フードショップ・タケヤスのところでY字路となり、左が中山道であり、右に進む筋は八幡道と呼ばれ近江八幡に通じていた。

大神宮常夜燈 地蔵堂 観音正寺道標 地下道
Y字路を左折すると右手に大神宮常夜燈があり、脇に愛宕大神碑がある。常夜燈の奥には地蔵堂があり、栢尾地蔵尊が安置されており、傍らに詳細不明の山本松太郎記念碑がある。
街道の右手には田畑が広がって、街道脇に小さな地蔵堂がある。 国道8号線に合流して東海道新幹線高架を越えて進んで行くと右手の東海道新幹線高架の先に橋があり、脇に 「西国三十二番観音正寺従是拾五町」 の道標が建っている。橋には擬宝珠が付いており、この直線上の繖山(きぬがさやま・標高433m)に観音正寺がある。橋の右手にはコスモスが一面に広がっている。 観音正寺道標の手前の東海道新幹線高架下に国道8号線を渡る地下道がある。地下道の壁には、安土城や観音正寺などの消えかけている絵図が描かれている。

旧道口 奥石(おいそ)神社 陣屋小路 寺小路(福生寺)
地下道を抜けると安土町東老蘇(おいそ)へ入り、旧道口に中山道道標が建っている。道標には 「愛知川宿へ一里半 武佐宿へ一里」 と刻まれている。近くには五輪塔らしき石造物が安置された小社がある。  東老蘇集落を進んで行くと右手に奥石神社がある。神社のある森は万葉の昔から歌に詠まれてきた名高い老蘇の森で、国の史跡に指定されている。石の鳥居をくぐり 両側に杉の大木が林立する参道を100mほど進むと、正面に奥石神社の社殿がある。奥石神社の御祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)で、本殿は天正9年織田信長が家臣柴田家久(勝家の一族)に命じて造営させたもので 国指定重要文化財となっている。 奥石神社を過ぎると直ぐ左手に陣屋小路標柱が有り、向かいの小路を入って行くと根来陣屋跡がある。根来衆は戦国時代に紀伊国北部の根来寺を中心とする一帯(現在の岩出市)に居住した僧兵たちの集団である。秀吉の根来寺焼き討ち後家康の家臣となり、数々の戦功をたて、大和・近江・関東に領地(知行所)を拝領し3450石の大旗本となった。 街道の左手民家の塀に寺小路の標示があり、入って行くと浄土宗の老蘇山福生寺がある。福生寺は天正16年(1588)に僧光阿によって開創された。本堂は江戸時代中期の建立と云われ、本尊の阿弥陀如来像は鎌倉時代の作と言われている。

轟橋 緑苔園 小社 奥石神社御旅所
街道を進むと轟川に架かる轟橋がある。ここには現在福生寺に祭祀されている轟地蔵があったという。橋の袂には金毘羅大権現常夜燈・愛宕山常夜燈が建っている。往時の轟川の川幅は狭く三枚の石橋が架かっており、現在その石橋は奥石神社公園地内に保存されている。 轟橋を渡ると左手に杉原氏庭園の 「緑苔園」がある。解説では勝元宗益(通称鈍穴)が江戸時代末期に作庭したといわれ、回遊式の枯山水庭園で広さは約500㎡有るという。庭園は滋賀県指定文化財になっている。個人宅の庭なので中に入ることは遠慮した。 先に進むと信号交差点の手前右側に小社があり、脇に手作りの祈祷標が建っている。小社の小川を挟んだ左隣には中山道道標が建っている。 信号交差点を越えると左手に祭礼の際の神輿の休憩場所である奥石神社御旅所がある。

鎌若宮神社 東光寺 小社 中山道西老蘇碑
近江八幡市立老蘇小学校を過ぎると右手に鎌若宮神社鳥居がある。鳥居を潜ると御神燈の並ぶ参道の中央奥に社殿がある。創祀年代は不詳であるが、一説には東西老蘇は元は一村で祭礼も同時に行われたが、東西分立するに至り、鎌宮四座の中、大村座が分離し、鎌宮の若宮として勧請したという。主祭神は大巳貴命(おおなむちのみこと)である。 鎌若宮神社を過ぎると右手に浄土宗の円通山東光寺がある。東光寺はかつて清水鼻にあった佐々木六角氏ゆかりの寺院で、六角氏滅亡後、衰退していたものを現在の東光寺が寺号と本尊を譲り受けたと伝えられている。境内には豊臣秀吉の祐筆であった建部伝内の像が安置された伝内堂がある。この日たまたま居た住職に伝内堂を開けて頂いた。 東光寺の先の旧家を見ながら進むと西老蘇公民館を過ぎた右手に注連縄を付けた小社が建っている。 国道208号線の亀川交差点右手に中山道西老蘇碑が建っている。
ここを右に北上すると東海道本線安土駅であり、安土城郭資料館・安土城天守信長の館・安土城跡がある。

安土城郭資料館 安土城天守信長の館 安土城跡 泡子延命地蔵尊遺跡
ここからは一時街道を離れて東海道本線安土駅近郊を巡ってみた。
(翌日11/2に行った記録である)

安土駅前には織田信長像が建っており、安土城郭資料館には安土城の模型があり内部を見ることができる。
安土駅から20分程歩くと山際に安土城天守信長の館・滋賀県立安土城考古博物館・文芸セミナリヨの大きな建物が並んでいる。安土城天守信長の館には原寸大で復元された天守がある。 安土城天守信長の館から東海道本線を越えて15分程進むと右手の山に安土城跡がある。安土城の正面玄関である大手門から山腹まで直線的に伸びる階段の大手道は180m程あり、その脇に羽柴秀吉邸宅跡・前田利家邸宅跡があり、傾斜が最も急なところはジグザグに屈曲している。 街道の続きで亀川交差点を越えて進むと右手小川の脇に泡子延命地蔵尊御遺跡碑が建っている。醒井にあった西行水の泡子の話と同じである。茶店の娘が旅の僧が飲み残した茶を飲むと忽ち懐妊し男の子を生んだ。三年後、その子を背負って大根を洗っていると僧が現れて、男の子にフッと息を吹きかけると泡になって消えてしまったという。

西願寺 西福寺 西生来一里塚跡 工事中
直ぐ左手の路地奥に真宗大谷派の安養山西願寺がある。 西願寺の先右手に浄土宗の円明山西福寺がある。西福寺は、安土浄厳院の開基応誉明感を開基とする寺で、泡子延命地蔵尊が山門脇の地蔵堂に祀られている。地蔵堂の脇にも地蔵尊碑が2基あり、向かいに不動明王道道標が建っている。 西福寺を過ぎると右手の暮しの衣料・三喜屋の前に西生来一里塚跡標柱が建っている。ここは江戸日本橋から数えて124里目の一里塚跡である。 蛇沢(いさ)川の手前で新しい橋の架け替えで街道が塞がれていたため、左の迂回路で蛇沢川を越えて行く。迂回して街道に出たところに西福寺境内泡子地蔵尊200mの道標があり、その脇に地蔵尊碑など石造物が3基ある。

武佐宿大門跡 牟佐神社 平尾家役人宅 明治天皇御聖蹟碑
直ぐ先に武佐宿大門跡の標柱が建っている。ここは武佐宿の東口(江戸口)である。武佐宿は約900mほどの長さで、家数183、本陣1軒(下川家)、脇本陣1軒(奥村家)、問屋2軒、旅籠23軒であった。 武佐宿に入ると直ぐ右手に牟佐神社がある。牟佐神社は市神様が祀られ、境内には盛大な市が立ったという。ご祭神は都美波八重事代主命(つみはやえことしろぬし)であり、境内社は金毘羅宮と稲荷神社である。 牟佐神社の斜向かいにある武佐小学校を過ぎると右手に武佐宿を取り締った平尾家役人宅がある。 平尾家の向かいに明治天皇御聖蹟碑が建っており、この右手奥に浄土真宗本願寺派の広斉寺がある。広斉寺は推古天皇2年(594)聖徳太子による創建で、当初天台宗に属していたが、嘉禎元年(1235)見真大師(親鸞聖人)が関東からの帰路立ち寄られた際に真宗に改宗した。明治11年(1878)明治天皇北陸御巡幸の際の行在所となっている。

脇本陣跡 浄宗院 宿並み 辻行灯モニュメント
街道右手の武佐町会館が奥村脇本陣跡である。長享元年(1487)近江源氏の主流である佐々木一族が近江八幡市金剛寺に金剛寺城を築城後、それに伴い移住した佐々木一族の家人である谷家の分家が、この地に御殿屋敷と言われる 「谷殿館」 を造り繁栄する。その後、江戸時代に入り奥村三郎左衛門が脇本陣として使用したものである。 脇本陣跡の向かいの路地を入って行くと浄土宗の三上山浄宗院がある。山門脇には弘法堂があり弘法大師像が安置されている。境内は玉砂利が敷き詰められ開放感があり、地蔵堂を中心に左右に墓石や五輪塔などがある。 街道に戻ると連子格子の旧家が立ち並んでいる。 国道421号線の武佐町交差点の右手に辻行灯のモニュメントが建っており、正面に中山道六十七番宿場武佐宿、火袋の台部分に右東京約460㎞、左いせ約120㎞と刻まれている。奥には武佐宿解説が設置されており、ここは象が通った道であるとの記載がある。

大橋家役人宅 伝馬所跡 旅籠中村屋跡 本陣跡
武佐町交差点を渡ると左手にいっぷく処綿屋があり、その隣に大橋家役人宅がある。大橋家15代金右衛門は皇女和宮降嫁の際に武佐宿伝馬取締役を勤めていた。 街道右手の武佐郵便局のところが伝馬所跡である。郵便局前には景観づくりのために書状集箱が復元設置されている。 武佐郵便局の向かいに旅籠中村屋跡がある。中村屋は現役として料理旅館を営業していたが、平成23年1月漏電で全焼し、現在、空き地となっている。 旅籠中村屋跡の向かいが下川本陣跡である。本陣門と土蔵が残っており、建坪は262坪であった。

道標 松平周防守陣屋跡 道標 法性寺
本陣跡の先の十字路左に文政4年(1821)の道標 「いせ みな口 ひの 八日市 道」 が、十字路右に安土浄巌院道標が建っている。 十字路の直ぐ左が松平周防守陣屋跡であり、その隣に愛宕山常夜燈と愛宕山碑が建っている。武佐宿は松平周防家が藩主であった武蔵国川越藩の飛び領地であったことから陣屋を置いていた。 街道を進むと右手の茶房中山道の斜向かいの路地角に道標が建っている。道標には 「武佐寺長光 従是三丁」 と刻まれている。近江鉄道八日市線を越えたところにある長光寺を指している。
ここから少し街道を離れて長光寺へ行くことにする。
武佐寺長光道標を左に入って行くと右手に浄土宗の真如山法性寺がある。境内には地蔵堂があり、童水子子育地蔵尊が安置されている。

金毘羅大権現常夜燈 八幡十二神社鳥居 長光寺 愛宕山常夜燈
法性寺の先を進むと近江鉄道八日市線の手前に金毘羅大権現常夜燈が建っている。 近江鉄道八日市線を越えて左に進むと右手に八幡十二神社の鳥居がある。参道を進んで行くと左手に長光寺があり、その奥に八幡十二神社がある。創祀年代は不詳だが往古より牟佐下の神と称したと伝えられており、御祭神は誉田別命・伊邪耶美命であり、境内社には日吉神社・阿賀神社・厳島神社・彦名神社・金毘羅神社・稲荷神社がある。 八幡十二神社の手前に高野山真言宗の補陀洛山長光寺がある。長光寺は弘法大師を宗祖とし、高野山金剛峰寺を本山とする寺院で、ご本尊は千手子安観世音菩薩である。境内には大師堂・不動堂・推定樹齢600年のハナノキがあり、本堂裏手には四国八十八所参詣道がある。 長光寺から街道に戻ると右手に愛宕山常夜燈と愛宕山碑が建っている。この隣が高札場跡である。

武佐駅 若宮神社 伊庭貞剛邸跡 明浄寺
愛宕山常夜燈の先は枡形になり、左手に近江鉄道八日市線の武佐駅がある。武佐駅の角を左に曲がって武佐踏切を越えると近江八幡市西宿町である。 西宿町に入ると右手に若宮神社がある。若宮神社の創立年代は不詳であるが、社記によると寛弘8年(1011)の勧請と伝わっている。御祭神は少彦名命で、境内社は八坂神社である。若宮神社の周辺が西宿城跡と言われ奥の竹藪に土塁が残っているが、築城年代や築城者については不詳である。。 若宮神社の参道左の広場が伊庭貞剛邸跡である。伊庭家は近江守護佐々木家の流れをくむ名家である。屋敷は中山道沿いに長屋門を構え、広大な屋敷を有していたが、近年建物は解体され、楠の巨木が往時を偲ばせている。伊庭貞剛は弘化4年(1847)この地に生まれ、明治12年(1879)大坂住友にいた叔父広瀬宰平の薦めにより住友家に入社し、明治33年(1900)住友家総理事に就任した。 伊庭邸跡の先右手の路地を入って行くと真宗大谷派の明浄寺がある。明浄寺は寛文2年(1662)の創建で、ご本尊は阿弥陀如来である。

鎮火霊璽碑 南無妙法蓮華経題目碑 道標 供養塚古墳
明浄寺から街道に戻り、長屋門の旧家を過ぎると右手の竹藪の前に三角形の鎮火霊璽碑がある。防火の神愛宕山である。 街道は西宿町交差点で国道8号線に合流し、その先六枚橋交差点で県道14号線を左折すると右手に入る筋角に南無妙法蓮華経題目碑が建っている。題目碑は具足山妙感寺の道標であり、県道14号線の岩倉交差点の近くにある。永仁4年(1296)に真言宗の寺院として開創され、その後応長元年(1311)日像上人の布教活動の際に日蓮宗に改宗している。 題目碑の先左手に道標が建っている。道標には 「安楽房 住蓮房 御墓 是よ里三丁」 と刻まれている。 道標脇の道を進むと畑となり、狭いあぜ道を進むと畑の中に供養塚古墳があり、塚上に安楽房・住蓮房の墓がある。古墳は古墳時代の遺跡である。住蓮房・安楽房は共に法然上人の弟子であり、鎌倉時代法然上人の念仏教団と既成教団の争いのため、後鳥羽上皇によって法然上人は四国に流罪、弟子の安楽房は京都六条川原で処刑され、承元元(1207)住連房は故郷のこの地で処刑された。

住蓮房首洗い池 道標
街道に戻ると道標の先右手に住蓮房首洗い池がある。竹垣で囲まれた中に池の遺構があり、傍らに住蓮房首洗池碑・小社と解説が有る。 国道8号線に合流する手前に道標がある。この道標は、供養塚古墳入口にあった道標と同じで 「安楽房 住蓮房 御墓」 と刻まれている。本日はここで終了し、六枚橋交差点から30分程あるいて東海道本線近江八幡駅前で宿泊する。

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